先日移動中の車内のテレビで偶然、小林幸子さんが歌ってて、ふと気付かされた。

表情、仕草が日本の多くのジャズシンガーみたいだ。いや逆か?
多くの、日本ではジャズシンガーと言われる人達が、小林幸子さんみたいなフィール、ニュアンスでジャズの曲を英語で歌ってるという事かもしれない。本当のというか、自然なジャズシンガーには無いフィーリング、ニュアンス、が沢山溢れ出てきてしまっている。

本当のジャズシンガーには決して見られないものだと思う。そういう時に「個性だから」というような意見もありがちだけど、デタラメや間違い、と個性は違うのではないかと思う。 

"Hey What's Up!" と言ってお客さんを迎えるお寿司屋さんみたいなものかもしれない。日本文化のテイストを最低限理解して、その上でエンターテイメントとしてわざとやっているのならまだ個性と言える?のかもしれないけど、もし、その変わってる事すら本人が気が付いていなかったら、日本的フィーリングを最低限習得していなかったら、それは個性ではなく、ただの勘違い、デタラメになってしまう。

ちょっと前に、NY在住のシンガー、天野昇子さんのギグを、アマチュアのシンガーの方が観に来てくれて、「昇子さんの歌も勿論そうだけど、それ以上に表情や身体の動きの一つ一つが日本には無いものに見えました。」というコメントをくれました。実際そういった事を感じてくれる人は、プロと言われるミュージシャンでも、少ないのではないか、と自分の経験からは感じます。まぁそうなると何がアマでプロだかも分からなくもなってしまうというか、もうどうでもいい事にもなってしまうのかもしれないですが。

でも正にそれは、自分が、小林幸子さんの歌を見て感じさせられたのと同じような事だったんじゃないかな、と思います。

やっぱり音楽は文化で、歌はよりダイレクトにそういったものが伝わりやすいだろうけど、

日本に住んで、”普通”に生活していたら、日本語(の音、そこに含まれるリズム、アクセント、フィーリング、ニュアンスなど)、日本の景色、日本のテレビ、日本的な常識、考え方、コミュニケーション、協調性、などなど、数え切れない程のジャズから遠い遠い日本的要素に囲まれてしまい、それが自然に歌から滲み出てくるのは、ある意味当然過ぎる事だと思います。むしろ、そうでない人は、日本では相当変わっている人でしょう。

自分が最初にNYに住む下見のために、1ヶ月マンハッタンに滞在した時、初めて街を歩きながらiPodでRed Garlandを聴いたら、あまりに普通で驚いた。普通というのは凄くない、という意味ではない。いや普通というよりは、自然だったという方が的確なのかもしれない。日本で聴いてたら特別(異質)なものとして響いていたものが、NYの街並にはマッチして溶け込んでいるように思えました。なるほど、こういった景色(文化)から自然に出てきたものなんだ、とその時強く思わされました。ヨーロッパの自然を見てクラシック音楽が聴こえてきそうとか、日本海を見て演歌が聴こえてくる、とかいうのと同じかなと思います。

ジャズをやる、というのは、歌うとか、楽器を弾く、とかいうだけの話ではなく、英語とかアメリカ文化を理解、吸収する、アメリカ人的性格を理解する、という様な事もかなりの割合で含まれるという事だと思うけど、まずはそこに気付ける事はとても大事というか、そこに着眼できなければ何も始まらないと改めて思います。

それに気付いてないように思われる人が、有名とか実力派と言われる人でも珍しくなく、また違和感無く観れる人も少なくない事は、やっぱりジャズとしては非常に残念な状況かなと思います。

気が付く人が少なければ、文化として良くなっていくことも非常に難しいのではないかと思いますが、少しずつでも良くなっていけたらいいな、と思います。