でも、意識もしっかりしてきた、もう少ししたら家に帰れるかも、と思えたのも束の間でした。

半年程前に入籍していた妻もできる限り病院にいてくれましたが、彼女が「これからできるだけお母さんのそばにいた方がいい。病院に泊まり、私達のどちらかが必ずお母さんのそばに24時間いましょう」
と言ってくれました。

まだその時点でもまだ五分五分で諦めてなかった、最悪を考えないようにしていた自分にとっては、母がそのくらいシリアスな状態だという事を受け入れる覚悟を与えてくれた言葉でした。

母は妻に、夜、自分達がいなくなり一人になると、中々お水も飲めない、と言ったそうです。勿論、看護師さん達は誠心誠意ケアしてくださってましたが、やっぱり痛み止めの薬で意識が朦朧としていると、「お水が飲みたい」と言う事さえ、その瞬間にはっきり口で伝える事が難しく、ボタンを押し看護師さんを呼べたとしても、来てくださった時に上手く言えず「では、また後で様子見に来ますね」の様になってしまう事もあったのではないかと思います。

多くの患者さんがいらっしゃるし、それ以上の事を看護師さん達にお願い、望む事は当然できない。「水」と言えなくても、「み」という言葉を言いそうな気配だけでも、そぶりを見せられるだけでも、こちらが「水?」と聞けば」肯く事はできたりする事もある。時には一回で意思表示できなくても、お水?ジュース?お茶?などと色々聞いてからまた水?と聞き直すと、肯く事ができたりする事もあった。

声は出せなくても、ちょっとティッシュのケースを指でトントンと触わり音をさせ、合図してくれる事もあった。そういうかすかな音、かすかなシグナルも24時間見落としたくなかった。飲みたいもの、食べたいものがあれば、できる限りその時直ぐ口にさせたかった。


妻と3時間交代くらいで、病室でそばに居て、横になり仮眠もしながら、微かな音でも直ぐ気付いて起きるようにした。そんなこと出来るのか?と思えたけど、やっぱり人間って必要に迫られるとかなりの事ができるもんだなと思った。毎日2〜3時間くらいの睡眠で、15分に一回くらいは目を覚ますような感じだった。

日中も何か食べたい、というものを上手く聞き出せれば、直ぐ買いに出かけた。なるべくその食べたい、という気持ちが無くならないうち、変わらないうちに食べさせたかった。

コーヒーゼリー、りんごジュース、生チョコ、アイスクリーム、品川巻き、などなど思い当たる物から全く結び付かないものまで、色々あった。 

「買ってくるよ」と言うと、今までと全く変わらず、「急ぎじゃないから、ついでの時で、いつでもいいよ」と必ず言ってた。こちらは「急ぎだよ!」と心の中で思いながら。


何かしようとすると大抵いつも「大丈夫、大丈夫」、
何か買って来て、と頼む時も「いつでもいい、急ぎじゃないから、ついでの時でいいよ」遠慮深く、迷惑をかけたくない、煩わせたくない、という気持ちの強い母の口癖は最後まで変わらなかった。

急いで買って戻ると、もう食べれない事も結構あったけど、食べれた時は「おぃっっしぃー!」とピッチは伴わない微かな声で、今までどこでも聞いた事のない初めて聞くニュアンスの忘れられない”美味しい!”という言葉も聞けた。大抵はほんの一口しか口にできなかった。でも一口だけでも食べさせてあげたかったから、それでも良かった。
 

妻が「病院に泊まってできる限り一緒にいましょう」と言ってくれたのにはもう一つきっかけがありました。ある日の夜中、2つ隣の病室からとても苦しそうな声が聞こえてきて、多分そういう状態が暫く続いていたのでしょう。看護師さん達も特別何かを出来る状態でもなかっただろうし、病室には家族もいなく一人きりだったらしい。そして翌朝お亡くなりになって運ばれていく様子を妻はたまたま見たそうです。

人生の最後の瞬間にしてはあまりに苦しそう、辛そう、そして寂しい、と感じ、同じ事を母には絶対にさせない、と決意して自分にそう言ってくれました。その事を亡くなる間際に教えてくださった2つ隣のその患者さんと、その患者さんからのメッセージを感じる感性を持っていた妻に感謝の気持ちでいっぱいでした。ホントにボーッとしていてダメな自分ですが、大事な事を教えてもらえて本当にありがたかったです。

28日は来客もあり、興奮したのかずっと夜中まで寝れない様子でした。
食べ物を受け付けなくなっていて、「食事は止めますね」と看護師さんに言われハッとする。

え、食事を止めるって、、、? 大きな疑問とまだ現実を見れない自分がいた。

そしてストローで水を飲ませていたけど、間も無くそのストローを認識する事ができなくなってしまう。ストローと食べ物の区別が難しくなり、水も飲めなくなってしまったので、綿棒の先に母の好きだったほうじ茶を染み込ませ、舌で香りだけ楽しませた。

何故か「パワーを送るよ」と言って、自分の額を母の額に着けてみた。あ、あっちゃんの香りだ。子供の頃の記憶にある母の香りと全く同じ、全く変わらない。もしかしたら、自分しか分からない、感じないものだったかもしれない。


そして29日早朝4時頃に、
「これから高崎にうどんを食べに行きますから、さぁ支度してください」
「まだお店朝早過ぎて空いてないから、もう少し休んでからにしようよ」
「あ、そうですか」
そして、
「〇〇市長のまーさんが可愛がってくれたの」
という様な事を真剣な表情で言ったり。その時はもう時間軸がぐちゃぐちゃに混ざっていたようでした。結局それが母の最後の言葉になり。その後意識を取り戻す事は無く、眠り続けました。