不思議なもので、渡米してから母との距離が逆に近くなり、帰国してからさらに近くなっていった。

帰国してから、色々調べたり試行錯誤しながら、母と相談しながら治療したり、中断したりした。勿論母のためでもあったけど、自分も後の人生でずっと後悔、心残りで生きていくのも辛かったので、自分のためにもできるだけ頑張ろうと思った。

結果的には病気から守ってあげる事ができなかった。
ごめん、ごめんね、あっちゃん。
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母の口から「これが欲しい」とか「これをしたい」といった類の言葉をあまり聞いた記憶が無い。自分の知る限り、最もそういう事を言わない、エゴというものの少ない人だったと思う。自分の夢は若い頃に諦め、ひたすら家族や周りの人のためにずっと生きてきて、人に何かできる事、少しでも幸せにできる事を一番の幸せに感じるような人だった。あそこまで人に愛情注ぐ人ってあまりいないんじゃないかな。

自分にとって、母であり、親友、恋人、全てで、最後は娘のようでした。大切な大切な娘を守ってあげたかった。母を少しでも幸せにする事が人生の目標であり、励みにして今までずっと生きてきたようなもので、これから何のために生きていくんだろう、と思わずにはいられなかった。



2人とも写真に写るのは苦手だったから、一緒の写真は殆どないな。
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もしかしたら、もっといい方法などもあったのかもしれない。
でも人生にはリハーサルが無く常に一発勝負で、たら、れば、が無い。
ああやっていたら良かったかかも、と言ったり思ったりしても何も始まらない。 

ただ、癌のお陰で、特に最後の2年は母との時間を今までの人生の中で最も作れたし、最後の瞬間まで一人にさせずに済み、ずっと一緒にいて手を握りながら旅立たせる事ができた。それが自分の中で少し救われたところです。

きっと神様と母が、その時間をくださったのかもしれない。そういう意味では”最後の時間”である事を教えてくれた病気にも感謝しないといけないのかも、とも思っています。


そして母も、世の多くの母親達と同じように、ふらふらしていた自分の将来が心配だったかなと思います、決して口にはしませんでしたが。でも、半年前に入籍した妻の事を「彼女は完璧」と言わせる事が出来た事は良かったし、少しは安心させる事が出来たかもしれないと思います。

病院でも、本当に温かい先生方、看護師さん達が誠心誠意尽くしてくださり、その姿に深く心を動かされました。ミュージシャンや、多くの世界でも、成功するとか有名になるとか、競争競争、自分自分になってしまう事も少なくないのかもしれないけれど、それとは最も遠いような世界で、純粋に人のため、目の前の命に全力で立ち向かわれてくださっていました。

経験豊富な看護師さん達から見たら、もう長くない、後どれくらい、という事は当然分かってる事だっただろうけど、まるでそんな事関係無く、例えあと1年でも、1時間でも同じように全力を尽くすだけ、最後まで諦めないという姿勢を強く心に焼き付けられました。

格闘技やスポーツの負け試合でも、最後まで全力でやり通すことができるのは、限られた選手だと自分は感じてきたけど、その例え勝機が1%でも、0だったとしても、諦めず全力で戦い続ける大切さ、もしそのまま負けたそしても、その姿勢は正しく、全く無駄にはならない事もまた改めて教えられました。

そんな素晴らしい先生方、看護師さん達に囲まれた温かい空間で最後を過ごさせる事ができたのも本当に幸運でした。

亡くなった後は悲しむ間もなく、葬儀などの準備や色々な手続きなどに追われる。多くの慣れない事ばかりで、全てリハーサル無しのぶっつけ本番。その後父が倒れ、救急車で入院。回復して迎えに行こうと思ったところで、今度は、自分が激しい腰痛で全く動けなくなり、救急車を呼び入院。葬儀などが終わった後だったのが救いだったけど、ちょうど少し気が緩んでしまったところで、母がちょっと休みなさい、と言ってくれたのかもしれない。

救急車に、担架にもなかなか乗る事ができない程の痛みだったけど、あの相当我慢強かった母が、ほんの少し身体を動かされただけで「痛い、痛い、勘弁してください」と言ってた時の気持ちがほんの少しだけ理解できた、感じれた気がして嬉しかった。

そして今年2月のバースデーライブ。
去年から、母が観に来るのは当然難しいだろうけど、そこまでいてくれてるだろうか、というのはいつも頭にちらつき、考えずにはいられなかった。ライブで母に逢える気がした。

何とそこに最後まで母を診てくださっていた看護師さん達がいらしてくれて、感謝の気持ちをお伝えしたら、逆に自分と妻の事を、「よくやってくれて、お母さま良かったと思いますよ」と労ってくださいました。勿論、看護師さん達は本当にそう思ってくださったのかもしれないけど、自分にはそれが母の気持ちを伝えてくださってた言葉のようにも聞こえ、まぁ自分でそんな事思ってバカかもしれないけど、不思議とそんなニュアンスを感じさせられました。

母が亡くなってから、母の友人の方々が「お母さんの代わりに言わせてください。〜」、と自分に話してくださったりして、”死人に口無し”なんて言葉もあるけど、人の口借りて喋ったりもするような事もあるのかもしれない。母と付き合いのあった方々と連絡取ろうとしたり、会おうとすると、物事があまりにスムーズに進みすぎて、これは何かの力が働いているのだろうか、と思わずにいられない事も多く驚きました。


そして今更ですけど、ライブで自分のミュージシャン仲間や、お客さんにも、母が誇らしげに息子の事を話すことがあり、しかもそれが病気の進行に比例して強くなっていく様にも見えました。最初の頃は、「恥ずかしいよ、やめてよ」とか「本当に凄くなって、親バカからバカが取れて、バカじゃなくなるように頑張らなきゃいけないね」なんて言ったりしてましたが、途中からはそれで母が少しでも気分良くなれたり、病気のストレスを忘れられるならいいか、心の中ですみません、と思いながら、好きに言わせておくようにしました。嫌な顔せず聞いてくださっていた皆さま、面倒くさかったかもしれない、疲れさせてしまったかもしれないですが、すみませんでした。ありがとうございました!
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2018年8月 クロちゃん、ありがとう!


旅立つ時には、妻が母にプレゼントしたセーターを着せてあげた。トニーからのお花にも包まれていた。出棺の時、気が付くと、自分が仕事やプライベートでお世話になっている仲間達が棺桶を持ってくれてました。大切な母を、とても信頼する優しくてゴツそうな男性陣が力強く守ってくれているような光景に、母も自分も本当になんて有難い、幸せなのだろう、「あっちゃん良かったね、安心だね」というような気持ちにさせられた。本当に本当にありがとうございました。


渡米してから母との距離が縮まり、帰国してからもっと近くなり、そして今はまたさらに近くなったのかもしれない。今まで全く親孝行できなかった。生きてる時、元気な時に心配、苦労ばかりかけ、何もできなかった大バカな息子だったけど、これから遅すぎる親孝行をしていきたい。何か少しでも人の役に立てたら喜んでくれるかもしれない。

道を踏み外さないように、母が喜べるような、悲しませないような生き方をしていって、安心して休ませてあげよう、と思います。




最後にもう一度、母に関わってくださいました全ての皆様、読んでくださった皆様に感謝の気持ちを母の分もお伝えさせてください。心からありがとうございました。
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石ころみたいな顔しているのが私です


 
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。