ジャズピアニスト Nori OchiaiのBlog

音楽、その他を通して日々感じる事や活動状況。

一般

海外在住の日本人と日本国内の日本人の危機管理意識の温度差


ダラダラ話してしまいましたが、時間無い方はよろしければ21:02から観ていただけると有難いです。 海外に住むと日本の良い面も悪い面も客観的な視点で見る事ができ、祖国を想う気持ち、愛情が強くなります。だからこそ真剣に心配してくださっているのだと思います。 今日本は非常に際どく大事な局面を迎えていると思います。政府が何らかの事情ではっきりと強い態度を取れないなら、私達一人一人が自覚と責任を持って行動する必要があると思います。 自分だけでなく、周りの人達のために、お年寄り、子供達、将来のために、みんなで協力して、出来る限り踏ん張れれば、と思います。
 

瓜田純士


瓜田純士
やっぱり凄いな。

トニーとの対談で不良っぽい要素の話したけど、
不良、ヤ●ザ出身で、刺されたり、何度も死にそうになったり刑務所行ったり、もの凄い人生経験。


文章もオリジナルなセンス、リズム感あって面白いし、独特の感性を感じる。


経験して来た事が正しいのか間違っているか、で言えば間違いは沢山あったのかもしれない。
 

ただ、そんな人並み外れた人生経験をくぐらないと持てないようなオーラが間違いなくある。勿論同じ経験すれば誰でもそうなれるわけじゃなく、そうなれる一握りの人間なのだろうから、結局は才能、という事にもなってしまうかもしれないけど。


奥様や周りの人への優しさ、気遣い、愛情も半端じゃないし、命の大切さ、生きることの大切さも誰より知ってる。
 

そしてこのご時世、ホントは政治家かテレビ出演するような人間が率先してすべき、マスクや手袋の着用、social distancinngなどのメッセージも、セックスの話しつつもさり気なく織り込んでくるセンス、姿勢は深くリスペクトさせられます。
 

こんな人が何か楽器の最低限の技術身に付けてジャズやったら、間違いなくスイングしまくって恐ろしい事になる、というのははっきり分かるな。
 

瓜田純士最高!


自宅待機の人も、外出しなければならない人も

スイングする事は命より大事と思ってましたが、やっぱり一応生きていないとスイングするのも難しいかもしれないので、今はできる限り安全最優先ですね。
 

生きるために外出しなければならない人は、出来る限り気を付けていただいて、安全をお祈りします。

海外から日本を見る日本人


良く分かる。
3.11直後、NYにいて全く同じ感覚だった。

被害や原発の事とか
日本人って真面目で几帳面で、って思ってたけど、アメリカと日本の報道同時に観てた自分には、想像以上の温度差で愕然とした事が昨日の事の様。海外にいると国内にいる日本人以上に真剣に日本が心配になる事が多いと思う。
ただ今回は3.11の時とも段違いのヤバさを感じてくれているの伝わってくる。 

何て言っていいのか、

志村けんさん、
信じたくないニュース、
最悪のケースがあったにしても、こんなに早く、、、

コメディアンとしては、最期はせめて女性に囲まれながら楽しく酒呑んで風呂で逝ってしまう、というような、笑いものにでもなれるようなものであった方が本望だったのではないか、と勝手に想像するけど、まさかこんな形でというのは本当に笑えない不本意なものだったろうし、余計に悲しい、悔しい。怒りも覚える。

非常に残念過ぎるけど、けんさんの死を重いメッセージとして、みんなでしっかり受け取め、真剣に協力し合い、これから1人でも犠牲者を少なく、1日も早く終息させれるように戦っていかないといけない、と思いました。

皆で協力しあって乗り越えたい!

信じられない、信じたくないですが、有名人や、自分の知り合い、ミュージシャンでも感染者が出てくる事態になってきてしまいました。

色々情報見たり、考えると、自分なりには病院や、人が殺到した状態で長時間並ぶスーパーの様な所は感染リスクが高いかもしれないと思います。医療関係者の負担をなるべく増やさないように各々が健康管理頑張る事も大事ですね。

SNSでスーパーに人が殺到しているという情報も見たけど、近所のスーパーは特に人が多くなく、一定の距離も保てるくらいだった。様子見てあまり混んでたら遠慮するつもりだったけど。使い捨て手袋着用して、帰ったら携帯や鍵やカードなどを消毒。現金をなるべく避けると消毒が楽かもしれない。必要な方はキャバクラのポイントカード(そんなのがあるのかどうか分からないけど)なども消毒した方がいいかもしれない。

そして帰宅後、色んな部屋入る前にまずシャワーも大事。毎回帰宅してすぐシャワー。時には1日何度も面倒だけど、自分のためだけでなく、周りの人に迷惑かけないためにもしっかりやらないといけない。

社会的立場、経済力も一人一人違うし、何が正解か分からない、正解は一つではないだろうから、攻撃し合わないで、それぞれが出来る事をして協力し合って乗り越えていくしかないのかな、と思います。

他者への優しさが問われているような気もします。

あっちゃんの事 5

不思議なもので、渡米してから母との距離が逆に近くなり、帰国してからさらに近くなっていった。

帰国してから、色々調べたり試行錯誤しながら、母と相談しながら治療したり、中断したりした。勿論母のためでもあったけど、自分も後の人生でずっと後悔、心残りで生きていくのも辛かったので、自分のためにもできるだけ頑張ろうと思った。

結果的には病気から守ってあげる事ができなかった。
ごめん、ごめんね、あっちゃん。
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母の口から「これが欲しい」とか「これをしたい」といった類の言葉をあまり聞いた記憶が無い。自分の知る限り、最もそういう事を言わない、エゴというものの少ない人だったと思う。自分の夢は若い頃に諦め、ひたすら家族や周りの人のためにずっと生きてきて、人に何かできる事、少しでも幸せにできる事を一番の幸せに感じるような人だった。あそこまで人に愛情注ぐ人ってあまりいないんじゃないかな。

自分にとって、母であり、親友、恋人、全てで、最後は娘のようでした。大切な大切な娘を守ってあげたかった。母を少しでも幸せにする事が人生の目標であり、励みにして今までずっと生きてきたようなもので、これから何のために生きていくんだろう、と思わずにはいられなかった。



2人とも写真に写るのは苦手だったから、一緒の写真は殆どないな。
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もしかしたら、もっといい方法などもあったのかもしれない。
でも人生にはリハーサルが無く常に一発勝負で、たら、れば、が無い。
ああやっていたら良かったかかも、と言ったり思ったりしても何も始まらない。 

ただ、癌のお陰で、特に最後の2年は母との時間を今までの人生の中で最も作れたし、最後の瞬間まで一人にさせずに済み、ずっと一緒にいて手を握りながら旅立たせる事ができた。それが自分の中で少し救われたところです。

きっと神様と母が、その時間をくださったのかもしれない。そういう意味では”最後の時間”である事を教えてくれた病気にも感謝しないといけないのかも、とも思っています。


そして母も、世の多くの母親達と同じように、ふらふらしていた自分の将来が心配だったかなと思います、決して口にはしませんでしたが。でも、半年前に入籍した妻の事を「彼女は完璧」と言わせる事が出来た事は良かったし、少しは安心させる事が出来たかもしれないと思います。

病院でも、本当に温かい先生方、看護師さん達が誠心誠意尽くしてくださり、その姿に深く心を動かされました。ミュージシャンや、多くの世界でも、成功するとか有名になるとか、競争競争、自分自分になってしまう事も少なくないのかもしれないけれど、それとは最も遠いような世界で、純粋に人のため、目の前の命に全力で立ち向かわれてくださっていました。

経験豊富な看護師さん達から見たら、もう長くない、後どれくらい、という事は当然分かってる事だっただろうけど、まるでそんな事関係無く、例えあと1年でも、1時間でも同じように全力を尽くすだけ、最後まで諦めないという姿勢を強く心に焼き付けられました。

格闘技やスポーツの負け試合でも、最後まで全力でやり通すことができるのは、限られた選手だと自分は感じてきたけど、その例え勝機が1%でも、0だったとしても、諦めず全力で戦い続ける大切さ、もしそのまま負けたそしても、その姿勢は正しく、全く無駄にはならない事もまた改めて教えられました。

そんな素晴らしい先生方、看護師さん達に囲まれた温かい空間で最後を過ごさせる事ができたのも本当に幸運でした。

亡くなった後は悲しむ間もなく、葬儀などの準備や色々な手続きなどに追われる。多くの慣れない事ばかりで、全てリハーサル無しのぶっつけ本番。その後父が倒れ、救急車で入院。回復して迎えに行こうと思ったところで、今度は、自分が激しい腰痛で全く動けなくなり、救急車を呼び入院。葬儀などが終わった後だったのが救いだったけど、ちょうど少し気が緩んでしまったところで、母がちょっと休みなさい、と言ってくれたのかもしれない。

救急車に、担架にもなかなか乗る事ができない程の痛みだったけど、あの相当我慢強かった母が、ほんの少し身体を動かされただけで「痛い、痛い、勘弁してください」と言ってた時の気持ちがほんの少しだけ理解できた、感じれた気がして嬉しかった。

そして今年2月のバースデーライブ。
去年から、母が観に来るのは当然難しいだろうけど、そこまでいてくれてるだろうか、というのはいつも頭にちらつき、考えずにはいられなかった。ライブで母に逢える気がした。

何とそこに最後まで母を診てくださっていた看護師さん達がいらしてくれて、感謝の気持ちをお伝えしたら、逆に自分と妻の事を、「よくやってくれて、お母さま良かったと思いますよ」と労ってくださいました。勿論、看護師さん達は本当にそう思ってくださったのかもしれないけど、自分にはそれが母の気持ちを伝えてくださってた言葉のようにも聞こえ、まぁ自分でそんな事思ってバカかもしれないけど、不思議とそんなニュアンスを感じさせられました。

母が亡くなってから、母の友人の方々が「お母さんの代わりに言わせてください。〜」、と自分に話してくださったりして、”死人に口無し”なんて言葉もあるけど、人の口借りて喋ったりもするような事もあるのかもしれない。母と付き合いのあった方々と連絡取ろうとしたり、会おうとすると、物事があまりにスムーズに進みすぎて、これは何かの力が働いているのだろうか、と思わずにいられない事も多く驚きました。


そして今更ですけど、ライブで自分のミュージシャン仲間や、お客さんにも、母が誇らしげに息子の事を話すことがあり、しかもそれが病気の進行に比例して強くなっていく様にも見えました。最初の頃は、「恥ずかしいよ、やめてよ」とか「本当に凄くなって、親バカからバカが取れて、バカじゃなくなるように頑張らなきゃいけないね」なんて言ったりしてましたが、途中からはそれで母が少しでも気分良くなれたり、病気のストレスを忘れられるならいいか、心の中ですみません、と思いながら、好きに言わせておくようにしました。嫌な顔せず聞いてくださっていた皆さま、面倒くさかったかもしれない、疲れさせてしまったかもしれないですが、すみませんでした。ありがとうございました!
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2018年8月 クロちゃん、ありがとう!


旅立つ時には、妻が母にプレゼントしたセーターを着せてあげた。トニーからのお花にも包まれていた。出棺の時、気が付くと、自分が仕事やプライベートでお世話になっている仲間達が棺桶を持ってくれてました。大切な母を、とても信頼する優しくてゴツそうな男性陣が力強く守ってくれているような光景に、母も自分も本当になんて有難い、幸せなのだろう、「あっちゃん良かったね、安心だね」というような気持ちにさせられた。本当に本当にありがとうございました。


渡米してから母との距離が縮まり、帰国してからもっと近くなり、そして今はまたさらに近くなったのかもしれない。今まで全く親孝行できなかった。生きてる時、元気な時に心配、苦労ばかりかけ、何もできなかった大バカな息子だったけど、これから遅すぎる親孝行をしていきたい。何か少しでも人の役に立てたら喜んでくれるかもしれない。

道を踏み外さないように、母が喜べるような、悲しませないような生き方をしていって、安心して休ませてあげよう、と思います。




最後にもう一度、母に関わってくださいました全ての皆様、読んでくださった皆様に感謝の気持ちを母の分もお伝えさせてください。心からありがとうございました。
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石ころみたいな顔しているのが私です


 
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。










 

あっちゃんの事 3

でも、意識もしっかりしてきた、もう少ししたら家に帰れるかも、と思えたのも束の間でした。

半年程前に入籍していた妻もできる限り病院にいてくれましたが、彼女が「これからできるだけお母さんのそばにいた方がいい。病院に泊まり、私達のどちらかが必ずお母さんのそばに24時間いましょう」
と言ってくれました。

まだその時点でもまだ五分五分で諦めてなかった、最悪を考えないようにしていた自分にとっては、母がそのくらいシリアスな状態だという事を受け入れる覚悟を与えてくれた言葉でした。

母は妻に、夜、自分達がいなくなり一人になると、中々お水も飲めない、と言ったそうです。勿論、看護師さん達は誠心誠意ケアしてくださってましたが、やっぱり痛み止めの薬で意識が朦朧としていると、「お水が飲みたい」と言う事さえ、その瞬間にはっきり口で伝える事が難しく、ボタンを押し看護師さんを呼べたとしても、来てくださった時に上手く言えず「では、また後で様子見に来ますね」の様になってしまう事もあったのではないかと思います。

多くの患者さんがいらっしゃるし、それ以上の事を看護師さん達にお願い、望む事は当然できない。「水」と言えなくても、「み」という言葉を言いそうな気配だけでも、そぶりを見せられるだけでも、こちらが「水?」と聞けば」肯く事はできたりする事もある。時には一回で意思表示できなくても、お水?ジュース?お茶?などと色々聞いてからまた水?と聞き直すと、肯く事ができたりする事もあった。

声は出せなくても、ちょっとティッシュのケースを指でトントンと触わり音をさせ、合図してくれる事もあった。そういうかすかな音、かすかなシグナルも24時間見落としたくなかった。飲みたいもの、食べたいものがあれば、できる限りその時直ぐ口にさせたかった。


妻と3時間交代くらいで、病室でそばに居て、横になり仮眠もしながら、微かな音でも直ぐ気付いて起きるようにした。そんなこと出来るのか?と思えたけど、やっぱり人間って必要に迫られるとかなりの事ができるもんだなと思った。毎日2〜3時間くらいの睡眠で、15分に一回くらいは目を覚ますような感じだった。

日中も何か食べたい、というものを上手く聞き出せれば、直ぐ買いに出かけた。なるべくその食べたい、という気持ちが無くならないうち、変わらないうちに食べさせたかった。

コーヒーゼリー、りんごジュース、生チョコ、アイスクリーム、品川巻き、などなど思い当たる物から全く結び付かないものまで、色々あった。 

「買ってくるよ」と言うと、今までと全く変わらず、「急ぎじゃないから、ついでの時で、いつでもいいよ」と必ず言ってた。こちらは「急ぎだよ!」と心の中で思いながら。


何かしようとすると大抵いつも「大丈夫、大丈夫」、
何か買って来て、と頼む時も「いつでもいい、急ぎじゃないから、ついでの時でいいよ」遠慮深く、迷惑をかけたくない、煩わせたくない、という気持ちの強い母の口癖は最後まで変わらなかった。

急いで買って戻ると、もう食べれない事も結構あったけど、食べれた時は「おぃっっしぃー!」とピッチは伴わない微かな声で、今までどこでも聞いた事のない初めて聞くニュアンスの忘れられない”美味しい!”という言葉も聞けた。大抵はほんの一口しか口にできなかった。でも一口だけでも食べさせてあげたかったから、それでも良かった。
 

妻が「病院に泊まってできる限り一緒にいましょう」と言ってくれたのにはもう一つきっかけがありました。ある日の夜中、2つ隣の病室からとても苦しそうな声が聞こえてきて、多分そういう状態が暫く続いていたのでしょう。看護師さん達も特別何かを出来る状態でもなかっただろうし、病室には家族もいなく一人きりだったらしい。そして翌朝お亡くなりになって運ばれていく様子を妻はたまたま見たそうです。

人生の最後の瞬間にしてはあまりに苦しそう、辛そう、そして寂しい、と感じ、同じ事を母には絶対にさせない、と決意して自分にそう言ってくれました。その事を亡くなる間際に教えてくださった2つ隣のその患者さんと、その患者さんからのメッセージを感じる感性を持っていた妻に感謝の気持ちでいっぱいでした。ホントにボーッとしていてダメな自分ですが、大事な事を教えてもらえて本当にありがたかったです。

28日は来客もあり、興奮したのかずっと夜中まで寝れない様子でした。
食べ物を受け付けなくなっていて、「食事は止めますね」と看護師さんに言われハッとする。

え、食事を止めるって、、、? 大きな疑問とまだ現実を見れない自分がいた。

そしてストローで水を飲ませていたけど、間も無くそのストローを認識する事ができなくなってしまう。ストローと食べ物の区別が難しくなり、水も飲めなくなってしまったので、綿棒の先に母の好きだったほうじ茶を染み込ませ、舌で香りだけ楽しませた。

何故か「パワーを送るよ」と言って、自分の額を母の額に着けてみた。あ、あっちゃんの香りだ。子供の頃の記憶にある母の香りと全く同じ、全く変わらない。もしかしたら、自分しか分からない、感じないものだったかもしれない。


そして29日早朝4時頃に、
「これから高崎にうどんを食べに行きますから、さぁ支度してください」
「まだお店朝早過ぎて空いてないから、もう少し休んでからにしようよ」
「あ、そうですか」
そして、
「〇〇市長のまーさんが可愛がってくれたの」
という様な事を真剣な表情で言ったり。その時はもう時間軸がぐちゃぐちゃに混ざっていたようでした。結局それが母の最後の言葉になり。その後意識を取り戻す事は無く、眠り続けました。







 

あっちゃんの事 2

2018年頭頃から体に変化、痛み、苦しさが出てきてましたが、それでもまだタイミング見ながらも外出したりできていたし、弱い自分は現実を半分見つつ、半分は避けて見えないフリをしてた感じだったかなと思います。

でも、最後の半年くらいで、夢ではない、厳しい現実、癌に蝕まれていくのが母の身体にはっきりと、見えないフリもさせてもらえないくらいになっていきました。親切心からかけてくれてたであろう、「お母さん痩せましたね。」「最近お見かけしないけどお元気ですか」などの言葉が、まだそれでも現実を信じようとしない弱い自分には突き刺さるようになってきました。

病院以外で自分の知る限り最後の外出になったのが、2019年6月六本木キーストーンでのライブでした。最後の力を振り絞って応援に来てくれたのかな、と思います。

その辺りからは、顔を見たり、電話で声を聞いて、毎日毎日が不安と安心、不安と安心の連続でした。「まだ直ぐには死なないよ」という言葉に心を悟られたような気がしてドキっとしたり、少しだけ安心したり、、、

そして、11月入った頃だろうか、
実家に寄ると今まで通りコーヒーやお茶を入れてようとしてくれる、その手が明らかに力無くコントーロールを失い震えるようになって言った。「いいよ」と言って遮ろうとすると、「ダメだよ、これくらいしなかったらもう何もできなくなる」と言ってやろうとしてくれた。スプーンから溢れ落ちるコーヒーの粉が母の涙のようでとても切なく痛かった。人に何かをしたい、できる事が最大の喜びの一つで、何も人の役に立てない事はとても悲しい、と感じたであろう母の性格を考えると、黙ってそうしてもらう。見ているしかないと思った。

身体の事を聞くと、誰よりも痛みや辛さに我慢強く弱音を吐いた事が無いような母の口から、”辛い” ”痛い” 等の言葉が悲しみと共に出てくるようになった。

「もう限界だよ、ノリに頼まれてるから頑張っているようなもんだよ」
今までの母からは想像の付かない様な言葉も聞くようになった。

心の中では、だんだん、”頑張って”という言葉ももう酷だな、”もう楽にさせてあげたい”という気持ちが強くなりながらも、「大丈夫だよ、頑張ろう」という言葉しかかけれませんでした。

そして12月20日、リハーサル終えてこれから本番という時に母から電話が鳴った。声はとてもしっかりしていた、、、けど、痛みが激し過ぎて、人の力を借りても全く動く事ができない、
という事で、救急車で病院へ行ってもらう事に。病院に行きたがらない、動けなくても出来る限り家に居ようとした母も、さすがに諦め病院へ向かってくれた。その時のためにちょっと前に、希望する病院に緊急時に入院できる手筈だけは、整えておけたのがラッキーでしたが、その時は思ったより直ぐに来てしまいました。

翌日からは、まず病院へ行き、そこから仕事、終わると病院に戻る、という毎日になりました。病院にいても、外にいても電話が鳴る度に不安と安心、手に汗にぎる瞬間瞬間の連続でした。

常にナーバスな状態の自分にとっては、音を出している時だけは心配しないでいられる、救われる様な気がしました。

入院して最初の3日くらいは、あまりの激しい痛みに朦朧としていて、コミュニケーションをとる事が難しく、あ、このままもうダメなのかな、、、と思わされたりもしたけど、薬で痛みを抑えると意識がしっかりしてきた。良かった、やっぱり元々の身体はかなり強いし、これで落ち着いてくれるかな、「もう少し回復したら家に帰ろうね」と言ったりしてました。





 
 

母、あっちゃんの事



何から話そう、

年末の母の病室で、この曲をかけたら涙が止まらなかった。
子供の頃よく母が弾いて聴かせてくれた曲で物心付いて、弾いてくれたのを覚えてる最初の曲かもしれない。10代半ばに最初にジャズを聴いた時、よく分からないと思ったのとは対照的にすぐに惹き込まれた。あまりの美しい世界、まるで一音一音に命が宿って、喜びを伴って踊っているような様子に涙も出てきて、それを見た母が笑いながら「なんで泣いてるの?」って聞いたりしてた。

あの時聴いた母のピアノの音がずっと自分の理想の憧れるピアノの音。魔法のような、人としての才能が音から伝わってくる様な感じだった。子供心にそう感じた。今までずっと忘れる事なくあのイメージがずっと心に鳴っている。これからもずっと。もう二度と出会う事もないのだろうけど、、、


クラシック音楽って自分にとってはもっと身近なジャズよりスケールの大きい、自然とか人生、それらの素晴らしさ、辛さ、厳しさ、などなどを感じさせてくれる気がする。ああ、人が人生で経験するおよそ全ての事、全ての感情が含まれているんだな、何百年も前の違う時代、世界に生きた偉大な先人たち、自分よりも遥かに多くの苦労や、様々な経験をした彼らが優しく、”全てを理解してくれて、” その上で励ましてくれてるって、そんな気持にさせられる。

ジャズは自分にとっては、もっともっと身近で人間臭く生々しいもの、そこが自分にはしっくりくるし薄汚れた自分には相応しいかもしれない、と感じる。それもまた、おこがましいかもしれないけど。

人生の意味なんて、今まで生きてきた中で全く分からない、分からない事だらけ。分からない、けど、様々な経験を通してあらゆる感情を経験する事、という試練が義務づけられている、そこに意味がある、という気は何となくしている。


ここからは最低のマザコン野郎の文章になってしまって、気持ち悪くなってしまう方もいらっしゃると思うので、心配な方はここで離脱してください。読んでくださる方は何卒お許しください。







今年の元旦の早朝に母が旅立ちました。
生前、自分のライブで話してくださたり、見かけてくださった、優しく接してくださった方々にも母に代わって改めてお礼も言わせていただきたい、という気持ちがずっとありました。本当にありがとうございました。母にとって、皆さんが会場で息子の音楽を楽しんでくださっていた様子を見れたり、温かいお言葉をかけてくださった事は、とてもとても嬉しく有り難い事だったのではないか、と思います。

自分は2005年4月に渡米しました。
渡米をきっかけに母とメールや電話する事が逆に以前より増え、距離は近くなった気がする。2013年10月、母から電話で癌である事を告げられました。癌が発見されてから既に半年以上は経っていたけれど、本人は「ノリが遠くで一人で居るのに心配させたら可哀想だから言わない方がいい」と言っていたらしく、家族でそれを自分に教えてくれた者はいなかった。もし、ずっと知らないままNYに居たかも、と思うとちょっとぞっとしてしまう。きっと大きな葛藤を抱えながら勇気を振り絞って話してくれたんだと思います。

それから色々調べ始めたり、母とも話すうちに、自分なりの勝手な判断ではあるけれど、母の事を(肉体的、精神的に)親身にケアできる人がそばにいないかもしれないと感じ、日本へ帰国した方がいい、という気持ちもだんだん強くなっていった。母は、まるで自分のために息子が夢を諦め帰ってくる、などと考えたりもしてしまったかもしれないし、そんな自分自身を嫌になってしまったりという気持ちもあったのかもしれない。実際何度も「そういう事じゃないよね?」と聞かれたので、強く否定しました。

母は人に何度も説明したり、心配されても滅入ってしまうと思ったのでしょうか、あまり病気の事を話しませんでした。

実際自分が2015年に帰国した頃は、誰よりも活発に動けてたし、本当に癌があるなんて誰も信じれないような感じだった。自分はすっかり忘れてしまっていた都心のデパート街などを案内してくれたりした。あまりの歩く速さに何度も人混みの中で母を見失いそうになった。ずっとずっとそうやって長年家族のために忙しい中で生きてきた、物凄いスピードで駆け抜けて来て、癌を患ってもまだその習慣が残っていた。

嘘だったらいいな、なんか夢か何かだろうか、と思った。今から思うとその時が夢みたいに幸せな時間でした。

自分は、免疫力を高めてもらうためにも、出来る限り楽しい気持ちにさせたり、くだらないバカな事いって笑わせたりしようとしました。ライブにも誘って、それを嬉しそうにしてくれたし、色々感想やダメだし聞いたりするのも面白かった。「もっと大胆にやりなさい」とかよく言われて、そのファンキーさに驚かされました。

その頃は肉体的には充分動けてたので、治療の方針の話し合いして、試行錯誤しながら主に精神面のサポートをする様にしてました。そんな幸せな日々も、今思えばもっともっと感謝しなくてはいけなかった位長く続いたのかもしれない。

それまでは病院も頑なに一人で行き、「大丈夫、大丈夫、かえって〜だから」と付き添わせてももらえませんでした。

でも、2018年頭から少しずつ、はっきり体に変化が現れ始め、母の性格上(ファンキーだったり意志の強いところもあった反面、遠慮しがちだったり、はっきり物を言えない典型的な日本人っぽいとろこもあり)主治医の先生やセカンドオピニオンでうかがった先生方にも必要な質問をしっかりするのも難しいだろうし、もしかしたら勘違い、思い違いなどもあるかもしれないので、もう強引に病院についていく?連れていく?しかないと思い、そうしました。

最初はかなり反抗?してる様子でしたが、何度か重ねるうちに、(外出もだんだん難しくなっていった事もあり)一緒に外に出かける事や、帰りに何か食べる事を、(勘違いかもしれないけど)まるで遊びにでも行くように楽しんでくれてる様にも見えて、そこはちょっと救われました。

自分も仕事が夜遅く、日付けが変わってから帰宅という事も少なくなく、病院は早朝に母を迎えに行って出かけないといけないので、時には2〜3時間の睡眠だったり、緊張して眠れず、お酒の力を借りて寝て、ちょっと頭ガンガンしながら、なんて事もありましたが、必要に迫られると、思ってたより何とかなるものでした。




 
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